ばーちゃんのこと

 ばーちゃんは、もう、4・5年グループホームに入っていた。

 グループホームっていうのは、認知症を持ってる人が入る施設で、どこもそうなのかは知らないけどばーちゃんが入っていたのは一応個室。ドアに鍵はかからなくて、食事は食堂で。塗り絵とか折り紙とかをしながら過ごし、ときどき施設の外へ集団でお出かけ。近所にイオンがあったので、よくイオンに行っていたらしい。

 

 ばーちゃんが死んだ。

 危ないって連絡を貰ったのが亡くなる2日前。その翌日、雨がひどかったけど、ツレの車で50km近い距離を送ってもらった。

 病院のベッドの上のばーちゃんは、もう荒く呼吸をするだけで、腕とか浮腫んでた。

「苦しいかな」

 私が訊くと、親は「もう何もわからないだろう」といった。

 その日は病院近くにある実家に泊まる予定だったけど、どうなるかわからないから、と一旦家に帰らされた。

 

 私はばーちゃんに育ててもらったようなものだ。

 

 実家とばーちゃんの家が同じ町内で、私の親は共働きだったから小学生の頃は学校からばーちゃんの家に帰っていた。ばーちゃんの家で母親の仕事が終わるのを待っていた。

 おやつにはよくチーズを出してくれた。果物を出してくれることもあったし、リンゴの皮むきはばーちゃんに教わった。スナック菓子はほとんど出てこなかった。

 宿題してたらよく覗き込んできた。作文とかは見られるのが恥ずかしくて、「見ないで!」といって仏間に逃げて書いた。

 ばーちゃんは昔、小学校の教師をしていた。

 

 戦時中を生きた人だ。

 私は大学生のころの夏休みの課題で「祖父母から戦争の話を聞いてレポートを、もしくはゴーマニズム宣言を読んでレポートを」というのがあった。理学部だ。理学部の専門教科の教授による課題だ。

 なんだそれ、と思いながらばーちゃんに話をしてもらった。

 戦時中のことをいろいろ聴いて、なんとなくあまり人様にばーちゃんの大事な思い出を晒したくない、そう思って、結局ゴー宣を買って読んでレポートを書いた。

 

 ばーちゃんは厳しかった。

 従兄弟連中はばーちゃんにそんな印象はなかったといっていた。ばーちゃんが一番かわいがっていたのが私たち姉妹だった、とみんないっていた。

 

 ばーちゃんは骨になった。

 あんな真っ白な骨になった。

 

 初七日は火葬が終わってから斎場で既に行われた。お寺さんのお話を聞きながら、夏休みにお坊さんが来ていたことを思い出した。

 精進揚げの会食事、ばーちゃんの祭壇に置かれたグラスには、ビールが注がれた。

 ばーちゃんはビールが好きだった。350缶では多すぎるといって、小さい缶を飲んでいた。

 ばーちゃんの淹れるお茶はすごく美味しかった。いいお茶っ葉を使っているのもあっただろうけど、丁寧に淹れていた。

 

 ばーちゃん、怖かったけど好きだった。

 私はヘンだから泣けないだろうなと思っていた。でも葬式、泣いた。

 ばーちゃん、好きだった。